同じ釜のメシはメシヤ?

「同じ釜のメシを食う仲間」という言葉、今では死語になりつつあるようです。同居している家族ですら一緒に食事しなくなっているし、「同じ釜のメシを食う」という行動をイメージすると、車座になって(これも死語になりつつあることば?)大きなお釜で炊いたごはんを、よそい合ってみんなで仲良くうれしそうに食べる―――運動部の部室が浮かんできます。

 不思議な連帯感や安心感が湧いて、自分はひとりではない、世界はひとつだって、自分も欠けてはいない一員だと、確認できるようなそんな雰囲気があります。

 そんなことでひとりひとりが大切な一員、世界はその魂で構成されているって、感じる人たちを増やせるなら、これこそゆとりの教育なのではないかなと思うのです。てんでんばらばらに一人遊びをやっていると、連帯感も安心感もない無感動人間を作ってしまうでしょう。

 「同じ釜のメシを食う仲間」というイメージを食事教育に使うならば、同じ釜のメシを食う・・・という実践は文字通り、現代社会の救世主(メシヤ)的役割をするように思います。

 私は講演会で(飲食禁止でない会場では)いつも食育タイムというのを作っています。

 ごはんを配る時もあるけど、同じ釜で焼いたパンを配って、目の前の人と相互に一口ずつ食べさせ合うということをしてもらっています。

 「同じ釜で焼いたパンを食う仲間になりましょう」ということです。

 これをすると、とたんに和気藹藹(わきあいあい)となってしまうからステキです! 私の講演の言葉の足らない部分をうめるメシヤにもなっています(?)。

 あなたも今日からとなりの人と食べさせ合いっ子を始めたらどうでしょう?

 きっと今までより幸せが感じられるはずですよ!