2 不合格は神社の御利益がなかったせい?(1/2)

 R子さんに限らず私の所に来られる方は、今直面している難病から私がすぐにでも救ってくれる救世主のように錯覚して訴えます。また、首尾よく病気から解き放たれ回復した人は、「センセイのおかげで生命いのち拾いをしました」とか「センセイに治していただいた」とか、私の力で治ったと錯覚している人が非常に多いのです。指導している側としては、まことに耳に心地よい言葉ではあるけれど、この他力本願パターンを作ってしまうことは本人のためになりません。“困ったときの京子センセイ”だとか、“一家に一台京子センセイ”などということになってしまうからです。

 つまり、戦って勝った兵士は私ではなく、誰でもが持つ自分自身の自然治癒力という兵士が勝ったという認識を持っていないのです。この認識を潜在脳にインプットしないと、また病気などの困ったことが起きたとき、自分自身の兵士を繰り出して、病気に立ち向かうことができず、またまた“困ったときの京子センセイ”になってしまいます。

 自分で勉強しないで、学問の神様とか言われている神社にチョッピリお賽銭して試験合格を祈るのと似てないかしら? もし、不合格ならば神社の御利益がなかったせいで、自分が勉強しなかったためとは思わない。試験は自分で受けるものだから、自分で勉強して、受かるようにがんばるものでしょう? 受験に合格するのに必要な参考書を手に入れたり、学習塾に通ったりするのと同じように、病気と向き合ったときは病院であり、私の所のような場所は生き方の指南所だと考えてほしいと思います。