ノーモアピシャ

人に誠実を求めるのなら、まず自分がその人に誠実であることです。

 でもその結果、その人の誠実さが、自分の誠実さと違う観点だったと分かったら、結局ふたりの間は誠実な関係ではなかったことになるわけです。

 そして、どちらの側にも、「私は、誠実だったのに・・・」って不満が残り信用できない関係になってしまう例がよくあります。

 こういうことがストレスの原因ではないでしょうか。最初から誠実にしても、無駄な相手だと思ったら、期待をかけません。期待をかけられるからこそ誠実になれる訳で、その気持ちが全然違う形で返ってくるのだから、ショックが大きいのです。

 身近な人を誠実だと感じると許しがたくなるのは、その期待が強いからだし、「その期待をかけた自分が間違っていた」って自分を責めることを同時にしてしまうから、ストレス度も高いのです。

 例えば、親しい間柄だから、自分が手をさしのべたら、当然、手を取ってくれると思っていたのに、手をぱっと払いのけられてしまった。そして、手を払いのけた理由は、自分ではない他の人に手を取ってもらいたかったのに、自分が手をさし出してしまったからだったのだと、知るようなことです。

 赤ちゃんが口に入れていた食べ物をベトベトの手で持って、だっこしてくれてる母親に食べさせようとすることってよくありますよね。その時、その手を「ピシャッ」てひっぱたいて「きたないわねっ!」って、食べ物を、たたき落とすとします。

 赤ちゃんにとっては生まれてはじめて「他の人に喜んでもらいたい」って意識を持ったスタートの行動な訳で、それが、自分にとっておいしい食べ物をお母さんの口に入れようとする行為なのです。

 それはその赤ちゃんの自然な誠実行動だったのに、「ピシャッ」とはねのけられてしまうのだから、ショックです。で、学習能力のある赤ちゃんは、次回から人に対して何かアクションをするのを、恐がるようになってしまうかもしれない。それは大人でも、同じことだと思うのです。

 人様に迷惑をかけたくないからといって、必要以上に甘えることを拒む人の中には、この「ピシャッ」をどっさり体験している人が多いのではないでしょうか。「ピシャッ」を味わいたくないから、自分の方から手をさし出すのは辞めようって決めているのかもしれません。それは赤ちゃんが人を喜ばせようとしてベトベトの手で食べ物を人に与えようとする、人間の本質能力のフタを閉じているようなものなのです。

 いつか誰かの手で、そのフタを開けてあげなければいけません。本人にもそんな本能はあるはずです。

 だから、もしかすると、「ピシャッ」とする人はされ続けてきた人なのかもしれません。

 「そうか」とうなずいてくれた人、これからは「ピシャッ」とされてもメゲないで、その人のフタを開けられる手助けをしてあげましょう。

 自分だけではなくて他の人に求めていてもいい。

 フタが開きさえすれば、自分が手をさしのべたことも、きっと喜んでくれる時がくるはずだからって考えていきましょう。

 「ピシャッ」とされても、そう考えつくのが人のプロです。

 それが「ノーモアピシャッ」への道です。