アダムとイヴの食べた実には変心菌がついていた
人間のはじめの始め。
アダムとイヴがエデンの園の善悪を知る木から実をとって食べた時から、この世に悪がはびこり出したって教わってきたのですが、アダムとイヴの食べた実には、善悪を知るエキスだけでなく、善悪どちらにでもなる始元菌=変心菌がついていたのではないでしょうか?当時は無農薬だったことですしね。
今の私たちの体内にいる数100種以上の共棲菌が棲み始めたことのはじめの始めは、やはりアダムとイヴの食べた実からではないのでしょうか?
そう考えると、共棲菌のルーツ、人間の原罪と言われてきたことがとても分かりやすくなります。
私たちの体内に悪玉にも善玉にもなる菌がいることを原罪を持つものという表現にすると、生まれたての真っさらの赤ちゃんも原罪を背負っているという意味に納得がいくのです。
どんな悪人も元は善から出ているという意味が分かる気がするのです。
変心菌つきの善悪を知る実を食べたアダムとイヴの9000代後の子孫である現在の私たちは自分の心を善い方にパイロットできれば、善い人になれるし、身体を善い菌の方寄りにパイロットできれば、健康になれるという希望が持てます。
そして何より、憎んだり、恐れたりする心が原罪という名の悪玉菌由来だと思うと楽になれるのです。心身や金銭の苦しみ、自分の過ち、悩み、学校に行けない、人中に出られない―――そんなことはみんな変心菌が悪玉菌寄りになっているからと、そう感じられれば善玉寄りに必ず戻すことができるとも思えるはずです。
もともと始元は変心菌だから―――と知っていれば、とっても自由になれます。
アダムとイヴが変心菌のプレゼンテイターとして私たちに関係しているかどうかは別としても、始元菌が変心菌ならすべての人に共通のチャンスがあるということになります。
「人のプロをめざそうよ」のはじめの始めは、変心菌を持っていることを知り、それを善玉菌寄りにすることをめざす、心と遺伝子作りのはじめの始めです。
小さい頃は、りんごの実(旧約聖書では善悪を知るりんごの実とされた)を食べるのはいつも冒険でした。
善いことと悪いことがしっかり見分けられるようになったら! とワクワクしていました。
今でもりんごはこの世の中で一番美味しいものだと思っています。ただ食べる時、願うのは善悪の判断ができるようにではなく、自分がやさしくやさしくなれるように、そして私の変心菌も一緒にやさしくやさしくなれるように―――ということです。